HONMA STORY

HONMA STORY 社会の基盤を整える

新潟港とともに

1946年に手掛けた海岸浸食防止工事に始まる、マリンコントラクターとしての本間組の歴史。80余年の年月には先人たちの築き上げた歴史があります。

地元・新潟港の発展を支え、共に成長してきたストーリーをたどります。

Where is新潟港?

明治元年(1869年)に開港した5港の一つである新潟港。新潟市中央区・東区の信濃川河口両側に設けられた西港区は、その当時から続く港湾エリアです。昭和44年(1969年)には、北区と聖籠町との間に東港区が作られ、現在はこの2港区を総称して新潟港と呼びます。

日本海側では唯一の中核国際港湾に指定され、環日本海交流の拠点港として重要な役割を果たしています。

新生・本間組の誕生

昭和9年(1934年)に7人の同志と合資会社を立ち上げながら、戦争により本間組としての企業活動は休止状態に。

終戦後、新潟に戻った創業者は戦災からの復興を決意し、まず空襲で廃墟と化した長岡市で市役所庁舎や市営住宅などを建設。そして、昭和21年(1946年)3月、株式会社本間組として再出発を叶えます。

時流を読み、工業立県を目指す新潟県に並走するように、本間組は物流を支える港湾や橋梁建設に乗り出していきました。

新潟海岸を守る

昭和21年(1946年)7月に大きな転換期が訪れます。

本間組は、後にマリンコントラクター、海洋土木建設企業と呼ばれるきっかけとなる工事を受注しました。新潟市東海岸の護岸工事です。冬の日本海の荒波で海岸が浸食され、海岸近くに立つ昭和石油製油所では波が工場に迫り、新潟からの撤退もささやかれていました。本間組は、地域と企業双方が大きな期待を寄せる、海岸浸食防止工事に着手したのです。

戦後の資材・物資不足、絶えず波を受けながらの施工、わずか2か月間という短工期。様々な条件が重なった難工事でした。入手できないセメントや鋼材の代わりに木材と石を使う工法を発案し、社員を安田村(現・安田町)に派遣して立木の状態で木材を確保。また、作業員には宿泊所を整備して士気を高め、社長が現地で指揮にあたるなど、全社が一丸となって工事を進めました。

この工事は、本間組にとって「海」との関わりの第一歩となり、海岸や港湾工事への意欲の醸成に繋がり、また、新潟にとっては海岸保全対策の始まりになりました。この後、新潟海岸護岸工事は、阿賀野川河口から関屋分水にいたる大工事へ発展します。その一連の事業に本間組は関わっていくことになります。

新潟港の危険を除去

終戦後も新潟港では戦争被害が続いていました。港湾封鎖のためにアメリカ軍が投下した機雷による、船の破損や沈没です。終戦前の3か月間に投下された781個の機雷が残っているだけでなく、湾内外には破壊された船舶が残され、通行の障害になっていました。さらに、昭和22年(1947年)9月には新潟県所有の浚渫船「万代丸」が機雷に触れて大破し、早急に引き揚げが必要になりました。

危険を伴う上、採算的にも厳しい、万代丸の引き揚げ・浚渫作業を、新潟県の要請を受けて本間組が請け負いました。資材調達では新潟県の全面的なバックアップを受け、工事は成功。その後も浚渫作業は続き、昭和27年(1952年)、ようやく外国船舶へ新潟港の安全宣言が出されました。

新潟港浚渫作業を通し、本間組は海への関心を一段と強めていきました。

ビッグプロジェクト、東港建設

昭和37年(1962年)、日本は第一次全国総合開発計画を発表しました。それを受け、新潟県では、新潟県臨海工業地造成企画を策定。河口港ではなく、大型船舶の出入りを可能にする掘り込み式港湾(現・東港)を軸とした工業地域の造成を計画し、新産都市地域指定を勝ち取ろうと誘致運動を開始しました。ビッグプロジェクト、東港建設のスタートです。

本間組は当計画に準備段階から参加し、まず試験突堤新設工事を担当しました。海岸線に直角に突き出す全長255メートルの試験突堤は、波高・海岸線の変化・砂の移動状態などを調査するためのもので、本工事の成否をうらなう重要な工事でした。

その後は、西防波堤建設と中央水路の浚渫工事を担当し、昭和38年(1963年)から昭和45年(1970年)までの新潟東港建設第一期において中核を担っていくことになりました。

東港には本間組の努力が詰まっているのです。

最新鋭浚渫船デビュー

最新鋭浚渫船デビュー

物流が加速し、港湾利用が活発化し始めた昭和30年代に、新潟県では、新潟東港建設と時を同じくして、各地でも港湾整備工事の需要が高まっていました。

過去の新潟港浚渫の経験から、最新鋭のディーゼルポンプ船の重要性を認識していた本間組では、昭和35年(1960年)に「第一越後」、昭和37年(1962年)に「第二越後」、そして、昭和47年(1972年)には日本海側最大の4,000馬力の大型ポンプ船「第五越後」(現在6,000馬力)を建造。大型船が接岸できる近代的な港づくりに関わっていました。

馬力も浚渫量もサイズもずば抜けて巨大で、最新設備を搭載した超大型船のこの船は、実は、今もなお第一線で力を発揮しています。社長の先見の明を伝える「第五越後」です。

川底を走るトンネル

新潟市の中心部を流れ、市内を二分する信濃川。河口付近に連絡路を設けて西港区と東港区・新潟空港を結び、新潟の拠点性を高めようという動きが具現化する日がやってきました。昭和62年(1987年)、新潟みなとトンネル建設が国の直轄事業として着手されたのです。工法は、効率性と省力化の観点から、奥深く掘り進むシールド工法ではなく、巨大なコンクリートの箱をつないで建設する沈埋工法に決まりました。

本間組は沈埋函を製作するドライドッグ工事をJVで受注。平成元年(1989年)9月、重さ26,000トンの巨大なコンクリートの函を8函製造するため、新潟東港内において、テニスコート100面分のドッグ建設に着手しました。そこで4函を完成させると海水を入れ、沈埋函を浮上させて建設現場へ送り、その後締めきって排水し、残りの4函を製造するのです。

日本海側初の工法による工事は大いに注目を集めました。

みなとトンネル海底部分は平成14年(2002年)に完成し、供用開始。新潟市の東西が結ばれ、新しい交流が可能になりました。

マルチ機能搭載船を開発

港湾工事、海洋開発、浚渫など、多様化する海洋土木工事のニーズに応えるため、本間組では、平成25年(2013年)に、多彩な機能を搭載した起重機船「にいがた401」を建造しました。

2,200トンを積載できる高い運搬能力を持ちながら、押航式により高い機動性も発揮できます。また、最大吊り荷重400トンの全旋回クレーンや最新デジタル機器を搭載し、施工の安全性、確実性、省力化を可能にし、環境対策エンジンの採用と回生エネルギーの利用により環境負荷の低減も図っています。

「にいがた401」により、大型ブロック据付や高精度の大深度浚渫、大水深基礎マウンド築造などの大規模工事から、小さな港や狭水域での作業、災害発生時にがれきや障害物を取り除き航路を確保する啓開作業や復旧作業まで幅広く対応できるようになりました。

これまでの海洋土木における本間組の経験を注ぎ込んだ当船は、社会インフラ整備や災害復興事業における新戦力となっています。

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