HONMA STORY

HONMA STORY 社会の基盤を整える

孤高のアーチダム

磐梯朝日国立公園内にそびえる、高さ116メートルの奥三面ダム。渇水や水害から地域の人々を守るため、計画から約30年をかけて建設されました。

本間組にとっても、工期が11年に渡る記念碑といえるダム建設の背景に迫ります。

ダムについて

工事名
(当時)
奥三面ダム本体工事
施工地 岩船郡朝日村大字三面地内
工期 1991年3月19日~2002年3月15日
概要 ダム形式:非対称放射線型アーチ式コンクリートダム
堤高:116メートル
堤頂長:244メートル
堤体積:257,000立方メートル
総貯水量:125,500,000立方メートル

羽越水害を繰り返さないために

三面川は、朝日連峰を水源として、朝日村、村上市を経て日本海に注ぐ50キロメートルの二級河川です。鮭や鮎が生息する恵み豊かな川ですが、一方、夏の渇水、大雨による氾濫を繰り返し、度重なる水害を引き起こしてきました。水害を防ぐため、昭和28年(1953年)の三面ダム建設を含め、しばしば河川改修が行われてきましたが、昭和42年(1967年)8月の羽越水害では、三面川流域にも甚大な被害が発生。新たな治水対策が急務となり、三面ダム上流に新たな大規模な治水ダム建設を計画しました。

昭和45年(1970年)に地元住民へ事業説明を開始し、河川総合事業の採択、工事用道路の建設などを経て、平成3年(1991年)、いよいよ本体工事に着手。

竣工まで10年をかけた、貯水効率の高さでは当時日本で3番目となる大型ダムの建設が始まりました。

ダムに沈んだ2つのドラマ

今、四季折々の風景が楽しめる観光スポットとして人気を集める「あさひ湖」は、奥三面ダム建設によってできた人造湖です。かつてそこには、マタギの里として知られた三面集落があり、自然の中で人々が生活を営んでいました。

当時の住民たちは、三面川流域の何万人の命を、そして自分たちの将来を守るため、移転に同意。昭和60年(1985年)、42戸は村上市へ集団移転しました。

そしてもう一つ、湖底に沈んだものがあります。それは、昭和32年(1957年)に本間組が完成させた末沢取水ダムです。小さなダムですが、当時はまだ重機がなかった時代、手練りのミキサーでコンクリートを作って打ち、苦労の末に成し遂げた工事でした。

古いダムが建設当時の姿を保ったまま、新しいダムに沈んでいく――偶然のこととはいえ、この地への浅からぬ縁と新潟県の公共事業に携わってきた本間組の歴史を感じながら、担当者は奥三面ダム建設に挑みました。

新潟県初のアーチ式ダム

奥三面ダム建設予定地は、硬い岩盤が作る深いV字の峡谷。この地形こそが、新潟県初のアーチ式コンクリートダム建設を可能にしました。このタイプのダムは強固な岩盤を持つ峡谷にしか建設できないため、適した地点が極めて少ないのです。表面の緩んだ岩盤と堆積した土砂を取り除き、平成3年(1991年)9月、岩盤にコンクリートを打ちつけるダム本体の工事を開始しました。

一日延べ200人以上もの作業員が働く現場は、「とにかく広大で、全体のパトロールに丸一日かかる」「ダム建設には多くの工種があり、様々な企業が関わるので、技術者として成長できる」と声が上がるスケールの大きさを誇りました。

4月から12月までの8か月間は昼夜2交代で本体工事を、雪に閉ざされる冬期間は内部工事を進め、休むことなく建設を行う厳しい現場でした。

徐々にアーチ曲線を描きだす本体を見上げ、「ダムは半永久的に残るから感慨もひとしおです」と、工事に関わった本間組社員は胸を張りました。

人々に愛される美しい景観

21世紀を迎えた平成13年(2001年)10月、奥三面ダムは竣工式を迎えました。岩肌をむき出しにした断崖絶壁の峡谷を前に、施工方法を模索した時から約10年が経ったその日、本間組社長は施工業者代表として記念植樹を行い、新潟県知事など関係者によるテープカットなど竣工を祝うセレモニーが執り行われました。

奥三面ダム建設工事は、ダム技術の発展に著しい貢献をしたと認められ、日本ダム工学会「平成16年度ダム工学会技術賞」を受賞しました。

渇水や水害対策など従来の目的に加え、現在のダムはレクリエーションや自然とのふれあいの場、また地域活性化のシンボルとしても活用されています。

全国でも希少なアーチ型ダムの堂々とした姿、満々と水をたたえたダム湖は、新緑から紅葉の季節まで多くの人々を惹きつけています。

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